榎本武揚はなぜ天才と呼ばれるのか?敵将も惚れた知性と功績の真相

目次
榎本武揚はなぜ天才と呼ばれるのか?敵将も惚れた知性と功績の真相
榎本武揚はなぜ天才と呼ばれるのか?敵将も惚れた知性と功績の真相
@ creator • Click to Play Video Inline
🎵 榎本武揚はなぜ天才と呼ばれるのか?敵将も惚れた知性と功績の真相

旧幕府軍の海軍総裁として箱館・五稜郭に立てこもり、明治新政府軍と最後まで死闘を演じた榎本武揚。敗軍の最高指揮官でありながら死罪を免れ、のちに明治政府で外務大臣や文部大臣など数々の重要閣僚を歴任した彼の足跡は、日本近代史において極めて特異な異彩を放っています。

歴史ファンや研究者の間では「幕末・明治を通じて随一のマルチタレント(万能の天才)」「過小評価されすぎている真の近代化の立役者」として、その規格外の頭脳が今なお熱狂的な関心を集めています。語学や軍事工学にとどまらず、国際法、外交、化学、教育に至るまで、彼が発揮した天才的な能力と、敵将であった黒田清隆すら命がけで助命に奔走させた人間的魅力の核心を、一次史料と史実のデータから徹底的に紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:オランダ留学で航海術・造船工学・国際法・化学・鉱山学を修めた幕末屈指の頭脳派であり、5か国語を操る語学力と国際感覚を兼ね備えていた。
  • 要点2:箱館戦争の極限状況下で、私蔵していた国際法の世界的名著『海律全書』を「学問の損失を防ぐため」敵陣へ送り、その崇高な精神が敵将・黒田清隆の心を激しく揺さぶった。
  • 要点3:特赦後は外務大臣として「樺太千島交換条約」を締結させ、東京農業大学の創設や電気学会の設立など、感情論の忠義を超えて国家の実利に尽くしたリアリストであった。

【幕末随一の知性】榎本武揚が「万能の天才」と称賛される決定的な理由

榎本武揚がなぜ「天才」と呼ばれるのか。その土台には、江戸末期という激動の時代において、同世代の志士たちとは隔絶したレベルで蓄積された圧倒的な自然科学・社会科学の知の集積がありました。

武揚の父・榎本武規(箱田良助)は、日本地図を完成させた伊能忠敬の直弟子であり、測量術や天文学に精通した幕臣でした。この血統から受け継いだ理系的な思考様式は、武揚の幼少期から開花します。昌平坂学問所で儒学を修めたのち、長崎海軍伝習所に入所。ここで勝海舟らとともにオランダ人教官から直々にオランダ語、航海術、砲術、天文学を学びました。

その才能を幕府に見込まれた武揚は、1862(文久2)年から1866(慶応2)年にかけてオランダへと留学します。滞在先であるハーグやデルフト、ライデンにおいて彼が学んだ領域は、単なる海軍軍人の枠を完全に逸脱していました。

  • 語学力:オランダ語の完全習得はもちろん、英語、フランス語、ドイツ語を自在に操り、のちにはロシア語までマスター。国際外交の舞台で通訳を介さず直接丁々発止の議論を行う語学水準に達していた。
  • 軍事・工学:幕府が発注した最新鋭軍艦「開陽丸」の建造監督を務めつつ、蒸気機関の構造、造船技術、近代砲術を理論と実践の両面から体得。
  • 国際法(万国公法):国際海洋法学者ヨハン・カスパール・ブラント(Johann Caspar Bluntschli)らに学び、当時のアジア圏では極めて珍しかった近代国際法の体系を完全に理解。
  • 産業科学:化学や物理学の実験室に通い詰め、さらにはフリーベルク鉱山学校を訪ねて鉱山開発や製錬技術まで習得。

幕末の日本において、武士の多くが尊王攘夷の思想的スローガンに熱狂していた頃、武揚はすでに「国際法に裏打ちされた国家主権」と「近代科学技術による産業立国」という、20年先、30年先の近代国家のグランドデザインを頭の中に完成させていたのです。

当時のメディア報道・掲載写真
【検証資料 1】当時のメディア報道・掲載写真(出典:storage.bushoojapan.com)

【箱館戦争と海律全書】敵将・黒田清隆が命乞いした壮絶な助命嘆願の真実

榎本武揚の生涯において最もドラマチックであり、その「天才性」と「人格」が奇跡を起こした瞬間が、1868(明治元)年から1869(明治2)年にかけての箱館戦争(戊辰戦争の最終局面)です。

江戸城が無血開城されたのち、旧幕府海軍の精鋭艦隊を率いて品川沖を脱出した武揚は、土方歳三らとともに北上して蝦夷地(北海道)へ渡りました。箱館・五稜郭を拠点に樹立した新政権(のちに蝦夷共和国と呼ばれる組織)では、日本史上初となる士官以上の入札(選挙)によって武揚が総裁に選出されます。ここにも、西欧近代の民主的手続きを日本で真っ先に実践した武揚の先進性が現れています。

しかし、新政府軍の圧倒的な物量の前に、旧幕府軍は次第に追い詰められていきました。最新鋭艦であった開陽丸が江差沖で座礁・沈没する不運も重なり、五稜郭の陥落は時間の問題となります。自決を覚悟した武揚が取ったある行動が、歴史の歯車を劇的に逆回転させました。

戦火の灰にするには惜しすぎる——『海律全書』の寄贈

降伏を決意する直前、武揚は自分がオランダ留学時代から肌身離さず愛読し、自らの手で膨大な注釈を書き込んでいた国際海洋法のバイブル『海律全書(かいりつぜんしょ)』(フランスの法学者テオドール・オルティランの著作のオランダ語訳本)を厳重に木箱へ収めました。そして、敵である新政府軍の軍監・山田顕義(のちの日本大学創設者・司法大臣)宛てに手紙を添えて送り届けたのです。

手紙に記されていたのは、「これからの日本が列強と渡り合うために不可欠な貴重な法書である。戦火で灰燼に帰すのは国家にとって計り知れない損失となる。どうか役立ててほしい」という趣旨でした。死地を前にして、敵味方の利害を超え、日本の未来の国益だけを案じた武揚の高潔さに、新政府軍の幹部たちは言葉を失うほどの衝撃を受けました。

「この男を殺せば日本の損失になる」黒田清隆の命がけの直訴

この武揚の器量に魂を揺さぶられたのが、新政府軍の参謀であった薩摩藩出身の黒田清隆でした。当時の明治新政府内では、反逆者の頭目である武揚を即刻斬首・処刑すべしという強硬論が支配的でした。長州藩の木戸孝允らも極刑を主張していたと伝えられています。

これに対し、黒田清隆は「榎本武揚の頭脳は日本という国家にとって代えがたい宝である。榎本を殺すくらいなら、自分の首を差し出す」と断言。自ら頭を丸めて坊主頭になり、新政府首脳陣に対して激しい助命嘆願を繰り返しました。敵将が、敗軍の首魁の命を救うために自らの政治生命と命を賭けるという、前代未聞の事態が巻き起こったのです。

黒田の執念が実を結び、武揚は死罪を免れて東京・辰の口の牢獄に収監。2年半の獄中生活を経て、1872(明治5)年に特赦によって無罪放免となりました。出獄の日、黒田清隆は武揚を迎え入れ、すぐさま北海道開拓使の重職へと引き入れたのです。

榎本武揚の驚異的なキャリアと多分野の功績詳細まとめ

釈放後の武揚が明治政府で成し遂げた足跡は、軍事、外交、産業、教育、科学技術とあらゆる領域に及んでいます。「万能の天才」と呼ばれるにふさわしい、その驚くべき業績データを客観的に比較検証します。

分野・役職具体的な功績・数値データ当時の日本の水準・時代背景編集部の専門的評価
外交・安全保障
(初代ロシア公使)
1875年、サンクトペテルブルクにて「樺太千島交換条約」を単独調印。樺太全島をロシア領とし、得撫島以北の千島列島全域を日本領として平和的に国境確定。不平等条約に苦しみ、ロシアの南下政策に軍事力で対抗できなかった脆弱な国力。国際法を完璧に理解した高度なディプロマシーにより、一滴の血も流さず国境問題を解決した近代外交の金字塔。
内閣制度・行政
(主要閣僚を歴任)
初代逓信大臣(1885年)、文部大臣(1889年)、外務大臣(1891年)、農商務大臣(1894年)と、旧幕臣として唯一無二の主要4省大臣を歴任。海軍中将。薩長藩閥(薩摩・長州出身者)が要職を独占していた専制的な権力構造。藩閥の利権争いに加担せず、実務と専門知識のみで国家機構の屋台骨を支えた真のプロフェッショナル官僚。
高等教育・実学
(教育機関の創立)
1891年、徳川育英会育英校(現在の東京農業大学)を創設。旧幕臣の子弟救済と実学・農業技術者の育成を推進。官僚養成のための法学偏重(東京帝国大学中心)教育が主流。日本の基幹産業である農業に科学的知見を注入する「実学主義」を確立。現在まで続く名門校の礎を築いた。
科学振興・学会
(自然科学の普及)
電気学会(初代会長)、東京地学協会、大日本化学会(現在の日本化学会)創設に関与。隕石から鍛造した「流星刀」の製作を主導。学術組織の未成熟と、西洋科学の単なる模倣に留まっていた黎明期。産業革命の根幹を成す電気・化学・鉱業の学会ネットワークを自ら整備。科学立国のインフラを整えた。
北海道開拓・殖産興業
(インフラ建設)
北海道開拓使として石炭鉱山(幌内炭鉱)の開発、小樽港の整備、手宮線の鉄道建設を主導。小樽の街づくりに深く関与。未開の原野であり、過酷な気候条件から開拓が難航していた蝦夷地。敵として戦った土地の未来を見据え、小樽を北海道屈指の港湾都市へと飛躍させる経済基盤を設計した。

上記の一覧を見れば明らかなように、武揚の足跡は「特定の政治派閥の成功」ではなく、「近代国家・日本が自立するために不可欠なシステム構築」に完全に捧げられていました。薩長のエリート層にもこれほど広範な実務知識と国際経験を併せ持った人材は存在せず、明治政府が彼を手放せなかったのも必然と言えます。

活動歴および当時の関連ビジュアル記録
【検証資料 2】活動歴および当時の関連ビジュアル記録(出典:pbs.twimg.com)

噂の真偽を徹底検証|福沢諭吉の批判とネットの評価「裏切り者」説の嘘

榎本武揚を語る上で避けて通れないのが、同時代の啓蒙思想家・福沢諭吉による痛烈な批判と、現代のネットコミュニティやSNS上でも時折見られる「節操のない変節漢」「旧幕府軍の仲間を見捨てて出世した裏切り者」というネガティブな言説です。

福沢諭吉『痩我慢の説』の真意と武揚の沈黙

福沢諭吉は1891(明治24)年、武揚や勝海舟を名指しで批判した評論『痩我慢の説(やせがまんのせつ)』を執筆しました。福沢の論理は明快でした。「幕府が滅びた際、武士たる者は主君のために討ち死にするか、下野して隠棲するのが『士風(サムライスピリット)』である。敵であった新政府に仕え、大臣として栄達を極めるなど、国家の道徳的規範を著しく破壊する恥ずべき行為だ」というものです。

福沢はこの原稿を武揚本人に送りつけました。世間を揺るがす大論争になり得たこの批判状に対し、武揚が返した返信は歴史に残る名文でした。

武揚は一切の自己弁護をせず、「拙者に関するご論評はごもっともであり、深く肝に銘じます。ただし、今は職務が多忙を極めておりますので、後日ゆっくりとお話しいたしましょう」とだけ答え、批判を軽やかに受け流したのです。

ネット上のリアルな反応と歴史ファンによる再評価

大手ネット掲示板や知恵袋、歴史系YouTubeチャンネルのコメント欄などでは、この福沢と榎本の関係性について白熱した議論が続いています。

  • 「福沢諭吉の言うことも当時の武士道としては理解できるが、武揚が隠棲していたらロシアとの国境交渉はどうなっていたのか?国益を考えれば武揚の行動こそが圧倒的に正しい」
  • 「榎本武揚は徳川という一つの家系ではなく、『日本』という国家全体に忠誠を誓っていた。真の近代人だったと思う」
  • 「土方歳三のような散り際の美学も尊いが、泥をかぶって生き恥を晒しながら、科学技術と農業で日本を富ませた榎本武揚のプラグマティズムにこそ大人の凄みを感じる」

報道各社や近年の歴史学研究が示す通り、武揚は決して私利私欲で出世を望んだわけではありませんでした。彼が大臣として得た多額の俸給の大部分は、旧幕臣の遺族の生活支援や、職を失った士族の子弟のための育英資金(のちの東京農業大学など)へと惜しみなく投じられていたことが史料から判明しています。

「死んで名を残す」ことよりも、「生きて国家と仲間のために実務を果たす」道を選んだ武揚の選択は、旧態依然とした精神論を排した極めて合理的で近代的な決断だったと評価できます。

【血脈と現在】榎本武揚の子孫の今と語り継がれる家族の記憶

榎本武揚が遺した精神と血脈は、現代の日本社会にも脈々と受け継がれています。「榎本武揚の子孫は現在どうしているのか?」という関心は非常に高く、各地での顕彰活動や学術講演を通じてその実情が明らかになっています。

地元メディアである『小樽ジャーナル』などの報道によると、武揚の曾孫にあたる榎本隆充(たかみつ)氏は、東京農業大学の客員教授や榎本武揚研究の第一人者として精力的に活動してきました。隆充氏は小樽市や函館市などで開催される歴史フォーラムに度々登壇し、武揚が直筆で遺した貴重な屏風や書状、所蔵品を一般公開するなど、地域の文化振興に多大な貢献を果たしています。

小樽と榎本家の絆は特に深く、武揚はかつて小樽の将来性に着目して自ら土地を取得し、農場や炭鉱鉄道の整備を支援しました。その土地管理のために設立された「北辰社」を通じて、小樽の近代化発展を財政面からも支え続けた歴史があります。

隆充氏が講演などで語る「曾祖父・武揚の素顔」は、公の場で見せる冷徹な近代官僚の顔とは異なり、好奇心旺盛で人懐っこく、身分の上下を問わず誰とでも気さくに酒を酌み交わす人間味にあふれた人物像です。ロシア公使時代には自ら黒パンを焼き、実験室にこもって鉱石を分析し、晩年になっても空から落ちてきた隕石(富山県で発見された白萩隕鉄)を買い取って刀工に鍛錬させ「流星刀」を作り上げるなど、少年のごとき探求心を生涯失いませんでした。こうした気風が、現在も子孫や関係者によって大切に守り続けられています。

【プロの結論】感情論の「痩せ我慢」か国家のための「実務」か?現代人が学ぶべき教訓

社会心理学や組織行動論の視座から榎本武揚の生涯を俯瞰したとき、そこには現代のビジネスパーソンやリーダー層にも直結する極めて深い教訓が存在します。

日本的な旧来組織において美徳とされがちな「組織と運命を共にする玉砕の美学」や「感情的な義理立て」。福沢諭吉が唱えた『痩我慢』は、共同体の結束を保つ上では一定の機能を果たしますが、危機的な環境激変期においては組織全体を共倒れに導く致命的なリスクを孕んでいます。

武揚が実践したのは、所属組織(徳川幕府)への情緒的依存を脱し、自らの「圧倒的な専門技能(ポータブルスキル)」を武器に、より上位の目的(日本という国家の生存)へと忠誠を再定義する高度な自己変革でした。敵将の黒田清隆が命がけで武揚を守ったのも、彼がただの反逆者ではなく、「代替不可能な実力」を持ったプロフェッショナルだったからです。

榎本武揚の生き方から学ぶべき人:

  • 所属する企業や組織の肩書きに頼らず、個人の専門性や技術で勝負したい人
  • 過去の失敗や挫折にとらわれず、実利と将来の成果を最優先して泥臭く再起を図りたい人
  • 感情的な対立を乗り越え、かつてのライバルとも共通の目的のために協調できるリアリスト

共感しにくい人:

  • 美学やメンツ、殉死的な散り際こそが人生の最高価値だと信じるロマンチスト
  • 所属組織のルールや過去のしがらみを絶対視し、そこから逸脱することを許せない人
公の場での発言・インタビュー報道記録
【検証資料 3】公の場での発言・インタビュー報道記録(出典:J-CASTニュース)

【榎本武揚 天才】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:なぜ敗軍の将である榎本武揚が、処刑されずに明治政府の大臣まで登りつめられたのですか?
A1:最大の理由は、オランダ留学で培った国際法、航海術、鉱山工学、語学力など、当時の日本で他に誰も代えが効かない規格外の頭脳を持っていたためです。箱館戦争の際に国際法書『海律全書』を敵陣へ送ったエピソードに心服した敵将・黒田清隆が丸坊主になって助命を嘆願し、新政府側も「国家の近代化に不可欠な実務能力」を高く評価したことで異例の重用につながりました。

Q2:榎本武揚が新政府軍に送った『海律全書』とは、具体的にどのような本ですか?
A2:フランスの国際海洋法学者オルティランが著した『海国際法』のオランダ語訳本です。榎本がオランダ留学中に書き込みを行って熟読していた手沢本で、戦時における公海の航行ルールや中立国の権利などが詳述されていました。榎本は「自分が死んでも、これからの日本が列強と対等に渡り合うための知識を灰にしてはならない」という一心で新政府軍に託しました。原本は現在、防衛省防衛研究所に保管されています。

Q3:榎本武揚と新選組の土方歳三はどのような関係だったのですか?
A3:箱館戦争を共に戦った最高司令官(総裁)と陸軍奉行並(副司令官格)の間柄でした。洋式軍事学を極めた合理主義者の武揚と、実戦的な統率力に長けた土方は互いに深く信頼し合っていました。土方が宮古湾海戦や二股口の戦いで獅子奮迅の活躍を見せた際も武揚はその手腕を絶賛しており、土方が戦死した報を聞いた武揚は慟哭したと伝えられています。

Q4:榎本武揚が創設した東京農業大学の設立目的は何だったのですか?
A4:1891(明治24)年、武揚が旧幕臣の子弟救済と農業の科学的近代化を目的に設立した「徳川育英会育英校」が前身です。当時、エリート官僚養成ばかりを重視していた風潮に危機感を抱いた武揚は、「農業こそ国家の基礎であり、科学技術を農業に導入しなければ日本は豊かになれない」という実学思想からこの学校を創設しました。

まとめ:変革期を生き抜く「知性とプラグマティズム」の真髄

榎本武揚の生涯を振り返ると、彼が「天才」と称賛される真の理由は、単なる頭の回転の速さや記憶力の良さにあるのではないことが分かります。激動の幕末から明治という巨大なパラダイムシフトの中で、感情的な過去への固執を断ち切り、冷徹なまでの知性とプラグマティズム(実用主義)をもって国家の未来を切り拓いた実行力こそが、彼の天才性の正体でした。

敗戦の責任を背負いながら牢獄に耐え、釈放後は薩長閥の冷たい視線に晒されながらも、ロシアとの困難な国境交渉をまとめ上げ、近代産業の礎を築いた榎本武揚。福沢諭吉から「痩我慢がない」と批判されても一言も言い訳をせず、ただ黙々と未来のための仕事を残したその背中は、不確実な激動の時代を生きる私たちに、真の知性と強さとは何かを静かに問いかけています。 (出典: 榎本武揚 天才(Yahoo!ニュース)

榎本武揚 天才
榎本武揚 天才
榎本武揚 天才